キリストの弟子‐真のクリスチャンとは?
あなたは自分自身をキリストの弟子であると考えたことがありますか?“あなたがたは、信仰に立っているかどうか、自分自身をためし、また吟味しなさい。それとも、あなたがたのうちにはイエス・キリストがおられることを、自分で認めないのですか≠なたがたがそれに不適格であるなら別です”(2コリント13:5)。
聖書はこう言っています、“なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです”(ローマ10:9)。
ですから、自分の罪とそれに続く死のとげから救われるには、(1)イエスは主であると告白し(2)イエスは私たちの罪のために十字架の死を遂げた後、死からよみがえったことを信じなければなりません。告白がなければ主権者である主から引き離され、イエスは私たちの救い主になれません。救いの確信は死と生を越えてイエス・キリストは真の主であると心で信じることです。
キリストの弟子‐どうしてイエスは主権者なのですか?
キリストの弟子には悔い改めと責務が付随します。もし神が主権者であるなら、彼はすべての物の所有者です。もし神がすべてを所有しているなら、私たちは何も所有しません。私たちの肉体も私たちのものではありません。聖書はこのように言っています、“あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現しなさい”(1コリント6:20)。“ご承知のように、あなたがたが父祖伝来のむなしい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、傷もなく汚れもない小羊のようなキリストの、尊い血によったのです”(1ペテロ1:18−19)。
私たちは管理者としての責任はありますが所有権はありません。クリスチャンの任務であるこの原則を理解すると共に、よき管理者とは、神の管理者としてどのように努めているかを含め、神の財産(あなた自身と、あなたの健康、あなたのお金、あなたの時間、etc.)を知恵を用いて管理する人です。
学ばなければならないクリスチャンの基本的レッスン:神は最善を知っている!神はすべてを知っている!神は私たちを御自分の子供のように愛してくださり(キリストを通して神の家族とされた)神の言葉である聖書を私たちの日々の生活を導く原則としてくださいました。この神の原則に従うのは私たちの守りとなります。神の子供である私たちは現在、困難と試練と誘惑と創造主である神を無視する敵意に満ちた世界に住んでいます。このような訓練を通されると、自分は神より良く知っているのだと言う錯覚である幼稚な概念から脱却し、悔い改めである核心:“私はあなた敵対した人生を過ごしてきました、私は間違っていました...自分を変えたいのです、どうぞ赦してください”と言えるのです。悔い改めとは、自我と罪を悔い改め、罪を拒絶し、罪から離れて神に立ち返ることです。
イエスは言った、“時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい”(マルコ1:15)。使徒達は“こうして12人が出て行き、悔い改めを説き広め...”(マルコ6:12)。イエスは宣言した、“そうではない。わたしはあなたがたに言います。あなたがたも悔い改めないなら、みな同じように滅びます”(ルカ13:3,5)。“そういうわけですから、あなたがたの罪をぬぐいさっていただくために、悔い改めて、神に立ち返りなさい”(使徒の働き3:19)。
すべての人には救い主が必要です。キリストの弟子には主権者である主が必要です。ではどのようにイエス・キリストを主権者である主として受け入れるのでしょうか? 古い生き方を悔い改めあなたの人生をイエスにささげて、かれの望みにふさわしく生きることです。私たちは生まれ変わらなければなりません。自己を満足させる、気分に左右される、それともキリストただおひとりが救い主であると認識する、このどれを選び取るのもあなたの自由なのです。神との交わりを提供するのはキリストおひとりです。私たち自身の知識と努力では得られない、またこの世が決して提供するとのできない人生の意義と目的をキリストおひとりが提供してくださるのですから、あなたの人生の第一優先となる方はイエス以外にありません。キリストはあなたに永遠の救いを与えてくださったと確信できるのです。
キリストの弟子‐生まれ変わったクリスチャンとは?
キリストの弟子になるためには本当に生まれ変わらなければなりません。生まれ変わったクリスチャンとは神を信じて神を受け入れている人のことです。信じて受け入れた人々は生まれ変わった結果神の家族とされます。“しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子供とされる特権をお与えになった。この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである”(ヨハネ1:12−13)。