弟子となるために支払う犠牲‐“まずすわって考える”
弟子となるために伴う犠牲とは? イエスは次のように言いました,“塔を築こうとするとき、まずすわって、完成に助ェな金があるかどうか、その費用を計算しない者が、あなたがたのうちにひとりでもあるでしょうか。基礎を築いただけで完成できなかったら、見ていた人はみな彼をあざ笑って、‘この人は、建て始めははしたものの、完成できなかった’と言うでしょう。また、どんな王でも、ほかの王と戦いを交えようとするときは、二万人を引き連れて向ってくる敵を、一万人で迎え撃つことができるかどうかを、まずすわって、考えずにいられましょうか。もし見込みがなければ、敵がまだ遠くに離れている間に、使者を送って調和を求めるでしょう。そういうわけで、あなたがたはだれでも、自分の財産全部を捨てないでは、わたしの弟子になることはできません”(ルカ14:28−33)。“いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだすのです。人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。そのいのちを買い戻すには、人はいったい何を差し出せばよいでしょう”(マタイ16:25−26)。
弟子となるなめに支払う犠牲‐パウロはその犠牲がなにかを知っていた
使徒パウロは弟子として支払わなければならない犠牲を知っていました! 彼はユダヤ教のエリートの中でも卓越した自分を誇りに思っていました。しかしキリストの愛を知ってからこのように宣言したのです,“しかし、私にとって得であったこのようなものをみな、私はキリストの故に、損と思うようになりました。それどころか、私の主であるキリスト。イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。それは、私には、キリストを得、また、キリストの中にある者と認められ、律法による自分の義ではなくて、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基づいて、神から与えられる義を持つことができる、という望みがあるからです。”(ピリピ3:7−9)
弟子となるために支払う犠牲‐自然的な生き方からクリスチャンへ
弟子となるために支払わなければならない犠牲とは:私たちはキリストが創造してくださった真の姿である自分を受け入れ、古い自分を捨てなければなりません。したがって“互いに偽りを言ってはいけません。あなたがたは、古い人をその行いといっしょに脱げ捨てて、新しい人を着たのです。新しい人は、造り主のかたちに似せられてますます新しくされ、真の知識に至るのです”(コロサイ3:9−10)それは“だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました”(2コリント5:17)。
“生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それらは彼には愚かなことだからです。また、それを悟ることができません。なぜなら、御霊のことは御霊によってわきまえるものだから”(1コリント2:14)。“というのは、肉の思いは神に対して反抗するものだからです。それは神の律法に服従しません。いや、服従できないのです”(ローマ8:7)。にもかかわらず、“私たちもみな、かっては不従順の子らの中にあって、自分の肉の中に生き、肉と心の望むままを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした”(エペ・:3)...“あなたがたも、かっては神を離れ、心において敵となって、悪い行いの中にあったのですが、今は神は、御子の肉のからだにおいて、しかもその死によって、あなたがたを御自分と和解させてくださいました。聖く、傷なく、非難されるところのない者として御前に立たせてくださるためでした”(コロサイ1:21−22)それ故、“もし、敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させられたのなら、和解させられた私たちが、かれのいのちによって救いにあずかるのは、なおさらのことです”(ローマ5:10)、そしてあなたが受け取るのは“その栄光と徳によって、尊い、すばらしい約束が私たちに与えられました。それは、あなたがたが、その約束の故に、世にある欲のもたらす滅びを免れ、神のご性質に預かる者となるためです(2ペテロ1:4)。したがって、“世をも、世にあるものも、愛してはなりません。もしだれでも世を愛しているなら、その人に御父を愛する愛はありません。すべて世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢などは、御父から出たものではなく、この世から出たものです”(1ヨハネ2:15−16)。“貞操のない人たち。世を愛することは神に敵することであることがわからないのですか。世の友となりたいと思ったら、その人は自分を神の敵としているのです”(ヤコブ4:4)。“自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世でそのいのちを憎むものはそれを保って永遠のいのちに至るのです。わたしに仕えるというのなら、その人はわたしについて来なさい。わたしがいる所に、わたしの仕える者もいるべきです。もしわたしに仕えるなら、父はその人に報いてくださいます”(ヨハネの福音12:25−26)。
弟子となるなめに支払う犠牲‐最後の言葉
“ご承知のように、あなたがたが父祖伝来のむなしい生き方から贖い出されたのは、銀や金のように朽ちる物にはよらず、傷もなく汚れもない小羊のようなキリストの、尊い血によったのです”(1ペテロ1:18−19)。このように、弟子となるための犠牲は私たちに与えられた賜なのでのこのことばは全く道理にかなっています。簡潔に言って“あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神に栄光を現しなさい”(1コリント6:20)。“というのは、すべての人を救う神の恵みが現れ、私たちに、不敬虔とこの世の欲とを捨て、この時代にあって、慎み深く、正しく、敬虔に生活し、祝福された望み、すなわち、大いなる神であり私たちの救い主であるキリスト・イエスの栄光ある現われを待ち望むようにと教えさとしたからです。キリストが私たちのためにご自身をささげられたのは、私たちをすべての不法から贖い出し、良いわざに熱心な御自分の民を、御自分のためにきよめるためでした”(テトス2:11−14)。
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